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管理者室より 2022年度

記事ID:0002723 更新日:2023年2月1日更新 印刷ページ表示

No198 「幸福な死」とは

正月が明けて10日が過ぎた頃、ある医療系のニュースサイトに、「初詣と幸福な死」という編集者の一文が書かれていた。読んでみると、ある神社に初詣に行ったら、そこに祭られている神様の中に「健康長寿・ぽっくり死」をつかさどる神様がいて、それを見つけた15歳の息子さんと「幸福な死」についてやり取りをしたが、その息子さんは「死」と「幸福」が結びつかなかったようだ、という内容だった。筆者は息子さんとのやり取りに続いて、これから「多死社会」を迎えるこの国の医療・介護制度改革がどのように進んでいくのかをしっかりウオッチしていきたい、と書き、「幸福な生」があって初めて「幸福な死」が迎えられると思うので、身近な人たちの健康長寿を願った、と結ばれていた

「願わくは花の下にて春しなむ その如月の望月のころ」という西行法師の「かくありたい死に方」を歌った歌があります。ずっと前の時代でも長生きをされた方もおられたのでしょうが、現代ほど多くはなく、「生」が終われば「死」がそこにある。生きることは、すなわち死ぬことであるという「死生観」が生まれた、とある人が述べておられます。ところが現代になって、戦争の時代は除き、「生」と「死」の間に、「老」と「病」が入り、「死」がずっと先送りにされたことで、人が「死」について身近なものとして考えなくなったと言います。たしかにそうかもしれない、と腑に落ちました。 

これから多くの人が亡くなる時代がやってきます。今こそわれわれは必ず来るエンドオブライフ―人生の終末―について考えなければいけないと思っています。「ACP(アドバンスドケアプラン=人生会議)」という言葉、耳にされたことがありますか?もしもの時に備えて、自分の医療やケアに関する希望について前もって考え、ご家族など身近な人たちと話し合い、文書に残しておくことなどをACPと言います。一度文書に残したことは変更できない、などということはありません。変更すること、撤回することも自由です。ACPは医療従事者などと十分な話し合いも行い、自分の終末期をどのように迎えるかの意思を残しておくものですが、医療従事者などの助言がない状態で意思を残しておく「リビングウィル」も、事前の指示として扱われています。

私の母は「自分がだれか分からない状況になったら生きていたくない」と常々言っていましたが、元気な間にそれを「書き残す」ことはしていませんでした。父の希望もあり、母は認知が進行し自分が全く分からなくなったあとも小腸に栄養チューブを入れ、最後は気管内挿管、人工呼吸器も装着した姿で亡くなりましたが、私は母を希望通りに送れなかったことを今も悔やんでいます。

「自分の最後は自分で決める」も「幸福な死」の条件の一つかもしれません。そして、それが当たり前になれば、この国の医療や介護の課題もいくらか解決できるのではないかと考えています。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No197 初詣に安全を祈る

新しい年、2023年が始まりました。多くの人が新たな気持ちで新年を迎えられたことと思います。私も「ゆく年くる年」の鐘を聴きながら年を越し、自宅近くの神社に初詣をしました。
初詣の習わしは地域ごとに、あるいはその家ごとにずいぶん違いがあるようです。子どもの頃から家内は新倉敷近くの家から最上稲荷に、長男のお嫁さんは兵庫県加西市の自宅から京都の伏見稲荷まで毎年初詣に行っていたそうです。どちらの家も自営業で、神様への信心が篤かったのだろうと思います。私は子どもの頃、家族でも一人でも初詣に行った記憶はありません。私の育った地域では、それぞれの家の長が、1月1日の朝早くから親戚の家に年始の挨拶に回ります。おそらく父はその挨拶回りの途中で村の社にお参りをしていたと思います。私の家にも朝早くから親戚の人、ご近所の人たちが挨拶に来られますが、母はその応対をするのが役目で、血縁の濃い親戚の人は座敷に上がってこられます。私は小さいながらも隣の部屋から母と親戚の人のやり取りを聞きながら、このセレモニーが済んだ後、母が作ってくれるぜんざいを楽しみにしていました。

私の初詣、大学受験をする年に一度、故郷の村の社にお参りをしましたがご利益はなく、その後もずっと行くことはありませんでした。しかし、10年ほど前に両親が亡くなり、正月に実家に帰ることがなくなってから、自宅近くの神社に初詣をするようになりました。願い事は毎年決まっています。家族の健康と病院の安全を一番に、その次に国や世界の平穏を祈ることにしています。私は日頃からいろいろなところで神頼みをしているので、初詣では自分のことは殆どお願いしません。医療安全のお願いは一度だけでは到底足りない、と思っていて、仕事始めの日には必ず病院の人たちと一緒に近くの神社にお参りし、安全祈願をしてもらうことにしています。この神社、それほど大きい神社ではありませんが、Yahooで検索すると奈良・平安の頃から続く神社のようで、現在の神主さんが唱える祝詞の声は、私が聞いた中では一番美しくよく通る声だと思っています。
お願いは家内安全、交通安全、商売繁盛などいろいろあると思いますが、やはり病院は医療安全です。お祈りをすれば医療事故は起こらない、というものではありませんが、お祈りをすることで医療安全への意識を深め、「今年は事故を起こさない」という決意につながります。「To err is human(人は誰でも間違える)」という言葉があります。たとえそうであっても、明らかなミスで人に害を与えてはいけないと思っています。人の身体にメスを当てる、侵襲的な操作を加えることは医療者だけに許されている行為で、そのために重篤な合併症を起こしたとしてもその行為が医学的に間違っていなければ罪とはなりませんが、医療者は病気ばかりに目をやらず、患者さんの全身状態、生前の意思、サポートの有無などを十分考え、自分の行う行為が真に患者さんのためになるのかを考えなければならないと思っています。
初詣の話がこんな結びになりました。今年も安全な医療を職員に訴えていきたいと考えています。
皆さま方にとって2023年が良い年となることをご祈念申し上げます。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No196 接遇研修会

以前から当院では研修会や市民公開講座などを開いていましたが、新型コロナウイルス感染症が始まってからそれが困難になりました。しかし、2022年4月からはこれまで今一つだった院内のWi-Fi環境を整備し、オンラインでの講演会、研修会がコロナ禍前のように開催できるようになり、さらに最近は講師を病院に迎えて現地開催もできるようになってきました。オンラインは便利ですが、私は目の前に講師がいて生で聴くほうが一生懸命聴けるような気がしています。

病院で開かれる研修会の一つに接遇研修会があります。患者さんに「心地よい」と思っていただける接遇が当たり前にできる「組織風土」を目指して、2005年から2019年までは毎年外部講師を招いて開催していましたが、2020年は事前収録していた映像での研修会となり、2021年は開催できませんでした。毎年60名、70名を超す新入職者もいる中で、コロナごときに負けてはいられない、と院内の療養環境整備委員会が頑張って、先日2年ぶりに外部講師を招いて接遇研修会を開いてくれました。当院の多くの職員は患者さんへの優しい声かけ、気配りができていると思っていますが、患者さんの投書の中には、夜中にナースステーションからの私語がうるさい、友達でもないのに友達のような口の利き方をする、対応がぶっきらぼう、など厳しい意見もいただいています。
今年の研修会の講師は、接遇のスペシャリストであるJALの現役客室乗務員の方でした。約1時間の講演でしたが、講師の方の表情は優しく、言葉のスピードや間合い、声のトーンは心地よく、何より立ち居振る舞いが美しく、あっという間に1時間が過ぎてしまいました。「接遇とは相手が主体、相手を思いやる気持ちを相手にわかってもらえるように優しく、易しく話すことが大切」、「心からの笑顔やアイコンタクトなどの表情が大切」、「コミュニケーションは相手主体の心と言葉のキャッチボールです」など、と話されました。
講師の方は業務上の話しも交えながら講演をされましたが、JALには職員が大切にして守っている五つのことがあるそうです。聞いてみると決して難しいことではありません。「仲間を名前で呼ぼう」、「仲間にありがとうと感謝を伝えよう」、「お客さんを名前で呼ぼう」、「自己紹介・他己紹介をしよう」、「笑顔とアイコンタクトで表情豊かに」、です。そして、例えばこれをフライトチームのミーティングで唱和し、「今日は○○と○○を大切に!」と確認するのだそうです。接遇のプロの集団でさえ、こんな基本的なことを毎回のフライト前に行っているのです。この病院はどうでしょうか。業務開始の申し送りでは、「患者さんには優しく笑顔で接しましょう」、「患者さんの誤認に気をつけましょう」などと言っていないかもしれません。大切なことは基本(当たり前のこと)を継続できることです。せっかく聴いたいい話、この病院でも毎日の始業時に、そんな声かけが始まっていればうれしいのですが。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No195 鉄道の思い出

今年は日本で初めて鉄道が開通して150年の年にあたります。150年を特別に祝う必要があるのか、と言われれば、毎年鉄道記念日もあるわけで、その必要はないかもしれませんが、一つの節目として鉄道の歴史やその事業に関わった人やモノ、鉄旅などに想いを馳せてもいいのかな、と思っています。
私の生まれ育った町には国道も鉄道も通っていませんでしたが、隣の町にはどちらも通っていて、駅もありました。私が4~5歳の頃、その町の病院に母が入院していたこともあり、父の自転車の荷台に乗せられて母の見舞いに何度も行きましたが、その町の通りは自動車が走り、行きかう人の服装も私の田舎でよく見る作業衣ではなく、全く違った町に見えました。
私が初めて汽車に乗った記憶があるのは小学2年生の春休み、隣町の駅から京都駅まででした。もう少し小さい頃に天橋立や城崎に行っているようですが、汽車で行ったのかバスで行ったのか、全く覚えていません。小学2年生の時の初めての汽車の旅、これはよく覚えています。もちろん蒸気機関車でした。峰山から西舞鶴まで宮津線、西舞鶴から福知山まで舞鶴線、福知山から京都まで山陰本線を走りました。たくさんのトンネルがあり、その数を数えました。生まれて初めて見る大きな川、由良川を見ました。西舞鶴から福知山までは、それまで最後尾であった客車の後ろに機関車が接続されて、今度はこれが先頭で汽車が走りました。しばらく宮津線と同じ線路を使うので、引き返しているのかと思って父に「峰山に帰るの」と聞いてしまいました。トンネルに入ると、汽車の窓を閉めることも覚えました。西舞鶴駅では初めて駅弁売りを見ました。京都駅に着きホームに出て、あまりの人の多さ、駅の大きさに驚き、駅前では、たくさんの大きなビルに驚きました。父との初めての汽車の旅、もう60年以上前になりますが、鮮明に覚えています。
高校を卒業し、京都で1年暮らしました。予備校の宿舎が太秦の山陰線のすぐ傍にあり、下りの列車を見るたびに故郷を思っていました。大学に入ってからは山陽本線を使って京都まで帰省をしていました。休み中は母がいつも私の好きな料理を作ってくれました。夜は両親や弟と家族で楽しく語らっていましたが、休みが終わって岡山に帰る急行「鷲羽」の中では、窓外に見える播州平野の山際の家々の灯りに、故郷や家族を想い何度も涙を流しました。
新幹線が開通、整備され、確かにずいぶん便利になりましたが、新幹線の中では考えることが浅く、答えを出すことにきゅうきゅうしている気がしています。リニア新幹線もあと数年で開通予定ですが、そこまで急ぐ必要があるのだろうか、近頃はこんな思いがしています。これまで私たちは何かにつけて「速さ」や「便利」を求めてきましたが、もっとゆっくり、もっとのんびり、そしてもっと深く、見たり考えたりするほうがいいのではないか、鉄道開通150年の記事を読みながら改めてそう思いました。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No194 100周年の開講記念会(同門会)

私の属している大学の外科(第一外科)は1922年(大正11年)に開設され、今年が開講100周年で、これまで1,000人を超す外科医たちがこの外科から巣立っていきました。「管理者室より」のNo54に「同門会」、No126に「第一外科と第二外科」と題して書いていますので、読んでいただければ同門会とか医局のことなど、多少分かりやすいのでは、と思います。
もう少し、この第一外科、第二外科のことを書いてみますが、ずいぶん昔は外科医や看護師、病室のみならず、第一外科独自の手術室までが大学にはあったようです。第二外科も同様に自前の手術室を持ち、それぞれが腹部の手術も胸部の手術もしていました。それぞれの外科はお互いにプライドをかけてしのぎを削っていたのだろうと思いますが、私が大学を卒業した頃には各科の手術室は存在せず、外科系の診療科はどの科も中央手術室で手術を行っていました。ただ、ふたつの外科は昔と変わらず、どちらの外科も消化器や呼吸器、乳腺などの手術を行っていました。心臓手術だけは第二外科のみがやっていましたが、それ以外は同じような手術をやっている?これはおかしい、患者さんからも分かりやすいように臓器別に診療を行うべきだ、という考えから、第一外科、第二外科、心臓血管外科の外科3科が「大学外科」としてまとまり、第一外科は消化器外科を、第二外科は呼吸器外科、乳腺内分泌外科を担当領域とすることになりました。ずいぶん分かりやすくなったと思います。

10月初め、第一外科100周年の記念式典が開講記念会(同門会)と兼ねて、3年ぶりに現地開催の形で開かれました。式典は歴代の教授や50年以上前に第一外科から分かれた脳神経外科、麻酔科の教授の祝辞から始まり、続いて岡山市出身の歴史学者磯田道史氏の特別講演、「岡山の歴史、医師の歴史」がありました。磯田さんの講演はあまりの博識、あまりの時間当たりの言葉の多さで、なかなかついていけませんでしたが、話の締めは、大阪から岡山足守藩出身の緒方洪庵先生が岡山藩主の往診に来られたという話で、なんとその往診料は30両、今のお金で1,000万円くらいだったようです。びっくりしました。
会の最後は現職教授の「遥かなる想い、次の100年へ」と題した講演でした。100年の間、われわれの外科は何をしてきたのか、そしてどこへ行くのかを、人の教育、技の伝承、医の心、夢のつながり、などの視点で話をされました。教授は100年の時の流れの中で「人」、「技」、「心」、「夢」が紡がれてここまで来た、これからもこれらを紡ぎ続け、人類社会に貢献することが大学外科の責務だと話をされました。記念式典といえば懇親会が開かれるのが常でしょうが、コロナ禍の中でもあり開かれませんでした。しかし、私も含めて出席した第一外科の同門の人たちは、次の100年に想いを馳せ、何をなすか、何を遺すかなどを考えながら帰路についたのだろうと思っています。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No193 二つの国葬

9月19日に英国のエリザベス女王の葬儀が行われました。英国内のことをよく知っているわけではありませんが、女王の葬儀を国葬としたことへの批判的な報道を私は目にせず、またこの国葬は議会での承認を経て行われた、とありました。葬儀に伴うさまざまな儀式は何日も前から世界に向けて発信されていましたが、多くの国民が女王の死を悼み何キロにも及ぶ弔問の列をなし、「エリザベスの時代」に別れを告げているかのようでした。まさに英国が一つとなって行われた葬儀だと感じました。

安倍元総理は7月8日、奈良市での参議院選挙での応援演説中に銃撃され、67歳の若さで亡くなられました。私は、この国で暗殺が行われたこと、狙われた対象が元総理であったこと、犯人に政治的な信条などはなかったこと、などに大きな衝撃を受けました。人に対して暴力を振るうこと、命に危害を加えることは断じて許されるものではなく、安倍元首相や残されたご家族の無念は計り知れないと、今でも痛ましく思っています。多くの人が奈良市の銃撃現場を訪れ、手を合わせ、哀悼の気持ちを捧げている様子も目にしました。
参議院選挙が終わった翌週の7月14日に、岸田首相は記者会見で安倍元首相の首相としての在任期間の長さ、国内外から多くの追悼の意が寄せられていること、東日本大震災からの復興、日米関係を基軸とした外交の展開等、多くの実績があるなどの理由を挙げて、「国葬儀」を執り行うと表明されました。そして7月22日の閣議で9月27日に「国葬儀」を挙行することが決められました。この国では英国のように議会の同意はありませんでした。
安倍元首相が亡くなられてから国葬までの期間が長かったこともあり、この国では国葬を巡ってさまざまな意見が報道されました。国民の国葬に対する賛否アンケートでは8月は賛否半々程度であったものが9月に入ると反対の意見が増加し、中には反対が70%を超えるものもありました。政治と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)とのつながり、安倍元首相と統一教会との関係、国葬が決定されたプロセス、安倍元首相の政治的評価など、7月14日に岸田首相が国葬を行うと表明した時には殆ど取り上げられていなかった問題が次々に出てきて、国葬への逆風として作用しました。
そんな中で挙行された9月27日の国葬、私も夜の報道番組の中でその様子を見ました。一般献花の列は4Kmを超え、3万人の人が献花されたとのことでした。しかし、一方では式典のさなかに国葬反対の集会も行われていました。果たして安倍元首相は自らの葬儀を空の上からどのような想いで見ておられたのでしょうか。誇らしさよりも悲しみのほうが大きいかもしれない、私はそう感じました。もし何十年か後、また国葬が行われることがあるならば、国が分断されることなく、多くの国民がその死を悼み、首(こうべ)を垂れる、そんな国葬であってほしい、そう思ったこの国の国葬でした。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No192 耳にした「常識」

私は休日の朝は雨が降っていない限りウォーキングをすることにしています。始めた動機などはNo121の「ウォーキング」に書いていますが、それまでは三日坊主で終わっていた私の一念発起は6年過ぎても続いています。自宅を出てすぐの小さな通りを右に曲がるか左に曲がるかで川沿いの道を歩くか田んぼ道を歩くかが決まりますが、どちらにせよ途中で必ずお祈りをする小さな祠があります。
おおよそ1か月前の土曜日の6時ごろ、その日もイヤホンをつけ音楽を聴きながら歩いていました。いつものように祠の近くにやってきましたが、その近くの道端で70歳代とおぼしき二人の男性が何やら話をされていました。私は耳からイヤホンを外し祠の前に立ち、二礼二拍手の後お祈りを始めようとしましたが、二人の会話が耳に入り、つい耳をそば立ててしまいました。

「医者はよう儲かるんじゃ」
「そうなんか?」
「そうじゃ、がんの患者がひとりおったら2,000万円病院に入るんじゃ、そりゃ常識じゃ。じゃけ、患者を離さんのよ」

初めて耳にする常識でした。「そんなことはありませんよ」と声が出そうになりましたが、それ以上は聞かないようにイヤホンをつけ、神様には失礼ながら音楽を流しつつ急いでお祈りをすませ祠を離れました。

私は大学を卒業してからずっと勤務医を続けています。医師になってすぐの4年間は民間病院に勤務しましたが、それ以外は大学病院、国立病院、市立病院、赤十字病院に勤務しました。民間病院に勤務していたころ、高校の同窓会で保険会社に就職した友人と収入の比較をしたことがありますが私のほうが低額でした。公立病院の勤務医ならば言わずもがなです。私や私の家内のお金の使い方に問題があるのかもしれませんが、今でも儲かってはいません。

病院の利益率はどれくらいか、「常識じゃ」と言われた方はご存じないのでしょう。2020年度のこの国の病院の利益率は新型コロナの影響もあってマイナス0.9%で、儲けはなしでした。その前の年は1.2%でしたが、それにしてもその他の業界と比べると雲泥の差で、この国のトップの業界の利益率は消費者金融18.3%、ネット証券17.5%、携帯電話13%などとなっています。

確かにがんの治療に使用する薬剤は種類も増え高額になっています。この薬やあの薬の効果がなくなれば作用機序の異なる次の薬が使えるようになってきています。しかし、病院に入る収入の総額は増えるにしても、人件費やそれらの薬を購入する費用は支払わなければなりません。高点数(高額)の手術をしてもそれに関わる医師や看護師さん、術後のリハビリを担当してくれる療法士の人たちに給料を支払わなければなりません。薬剤を購入する際には消費税がかかりますが、医療費に消費税は導入されていません。がん患者さんがいれば病院が儲かるような構図にはなっていないのです。「常識じゃ」は「常識」ではないのです。

私自身の「常識」もみんなの「常識」ではないかもしれません。注意をしなければ、と感じた出来事でした。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No191 まだまだコロナ

この「管理者室より」を4月に再開しました。4月、5月はコロナの話、6月はコロナ禍の中でも京都へ一泊二日の小旅行に出かけた話を書きました。そして7月はついにコロナの「コ」の字も出てこない、自動車教習所での認知症テストの話を書き、「管理者室より」の世界にも日常が戻ってきた、と思っていたのですが、今また「爆発」が起こっています。まだまだコロナです。

この度の第7波、半端ない感染力です。7月に入ってから職員の感染が急増しています。2021年はわずか3人だけだった職員の感染ですが、2022年になってからこれまでに70人を超える職員が感染し、特に7月以降、1か月も経たない間に30人を超えて感染者が発生しています。オミクロンの変異株BA.5はBA.1やBA.2に比べ感染力が強く、潜伏期間も短いようです。毎日公表される感染者数はすさまじい勢いで増加し、この国では1日20万人を超える感染者数が報じられています。都道府県別の感染者数も多くの地域で過去最高を記録し、7月28日には福山市でも644人と過去最高の新規患者が報告されました。
職員の感染は病院にとっては大きな問題です。職員が感染すれば必ず院内で会議を開き、感染経路、院内での感染の拡がり、病院として取るべき対策(診療制限の必要性など)などを話し合います。医師や看護師など直接患者さんに関わる人たちから陽性者が出ると一定の期間、病棟を閉鎖し新たな入院患者の受け入れ停止などを行います。そのような事態になれば通常医療にも大きな影響が出ます。これまで、救急患者の受け入れを停止したことはありませんが、これ以上感染が拡大していけば、受け入れ病床や医療者不足のために通常医療が提供できなくなる可能性もあり、この先どうなっていくのか少し心配をしています。JR九州が乗務員不足のために特急を10日間で延べ120本運休にしましたが、他人事ではないと感じています。

この2年少しの間に新型コロナについて知見も得ました。BA.5といえどもウィルス自らが自分の意思で動き回り、人に伝播することはありません。必要以上に恐れる必要はなく、一人ひとりがマスク、手洗い、三密防止、黙食、目の保護、換気など、時と場所を考えた基本的な感染対策を続けていくことが肝要のようです。以下に実話です。

今年の4月、東京に住む小1の子が、そして7月にはその兄の小5の子が新型コロナに感染しました。4月の時も7月の時も、感染した子どもは自宅療養をしていましたが、他の3人の同居の家族には感染が拡がりませんでした。この家族が住む家は一軒家ではなく、昔ながらの狭いアパート(官舎)です。行ったことは基本的な感染対策だけ、と言っていました。私は同居していれば感染するだろうと思っていましたが間違っていたようです。

今朝、BA.2の派生株であるBA.2.75(ケンタウロス)の感染者が国内で発見されたと報道されていました。BA.5の3倍の感染力とのことです。基本的な感染対策、しっかり行わなければいけません。基本に立ち返りましょう。「本立而道生(本立ちて道生ず)」です。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No190 あるテスト

今回の話は院内の皆さんにはほとんど興味がない話だと思いますが、ホームページからこのコーナーを読んでくれている私と同世代の人には多少は役に立つかもしれないので書くことにしました。テストの話です。
テスト週間のあった中学生時代から大学を卒業するまで、どのような試験であれ、それが終わった後には、一種の心地よい解放感がありましたが、今回のテストの後には心地よさはなく、次回の憂鬱が残りました。

今年の4月頃、警察署から運転免許更新に伴う認知症テストと高齢者研修(座学と運転実技)の案内が届きました。座学や実技はともかく、認知症テストを受けなければならないのはストレスでした。というのも、私の恩師のN先生から、「認知症テストは結構大変だった」と聞いていたからです。N先生ほどの先生がそうなら、最近物覚えでは家内に負けている私はどうだろうか、と思っていました。
これまで私が受けてきたテストの多くは理解と少しの記憶で大丈夫、つまり頑張ればなんとかなるテストです。認知症テストは頑張ればどうにかなるようなテストではありません。今思えばネット検索をして、そのテストがどのようなものかを調べておいてもよかったのですが、それもしていませんでした。
予約した日、教習所の集合場所に行くと同世代の人が5人、思わず姿、形をチェックした自分がいましたが、見た目の若さと認知症は関係ないと頭を振りました。さて認知症テストです。動物や昆虫、電気製品、野菜などが1枚に四つ書かれたスライドを4枚見ます。併せて16の「もの」の絵を見るわけです。1枚のスライドにつき1~2分の見る時間は与えられます。この後、紙面にランダムに書かれた数字のうち、指定された数字を線で消していく作業を2回やらされます。やはり1回2分くらいでしょうか。そしてその後、最初に見た16種類の「もの」の名前を解答用紙に書いていきます。さて、普通どの程度できるものでしょうか?私はしっかり覚えている「もの」しか書きませんでした。次に、教官の合図でページをめくると、電気製品、楽器、学用品などと解答マスの中にヒントが書かれた用紙が出てきましたが、このヒントを見た後は全て書くことが出来ました。この日はテストを受けた全員が合格でしたが、高齢者は交通違反をするたびにこの認知症テストを受けなければならないようです。このテスト、終わっても何の爽快感も得られませんでした。
この日の研修では、視野や動体視力、夜間視力などの検査もしました。日頃運転に不自由は感じていなくても実際は相当低下していることも分かりました。私の勤務している病院は救命救急センターを併設しており、痛ましい交通事故の患者さんも搬送されてきます。車自体の安全性も改善されていますが、最後は人、運転者ひとりひとりの安全意識が第一だと改めて研修を受けて感じました。
さて皆さんに問題です。黄色信号は、進め、注意して進め、停まれ、のどれが正解でしょうか?

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No189 2年ぶりの一泊二日

 ゴールデンウィークの前半、一泊二日で京都辺りに出かけましたが、京都を観光するのではなく、同郷の先輩の版画展を鑑賞したり、長く会っていない従姉夫妻や友人、弟などと顔を合わせる旅でした。
 2年前の1月の終わり、泊りがけの東京出張に出かけましたが、自宅や借りているコーポ以外で寝泊まりするのはその時以来、また、東に向かって新幹線に乗るのも2年ぶり、まるで子どもの頃の遠足のように前日から興奮していました。
 版画展を開いた故郷の先輩は実は父の従弟にあたる人で、展覧会には大阪近郊の消えていく建物や風景、四国八十八カ所の寺々などの版画や原画が展示してあり、ご本人から制作に関わる話も伺いました。
 そもそも「展覧会」に行ってみようと思ったきっかけは、私自身もこの先どれだけ元気でいられるかは分からず、以前、秋元康さんの「象の背中」を読んだ時にそんなことを思った記憶もあって、大切な人たちにはなるべく会っておくほうが良い、と思ったからです。この展覧会に集まったのは、生まれた家もごく近くの同級生と一級下の後輩、そして私の弟です。版画を見た後、四人でギャラリー近くの食堂で蕎麦を食べましたが、なんと腰を上げるまで二時間、ほとんど記憶にないほど軽食に時間を使ってしまいました。コロナの時代に医療者としてあるまじきことでしたが、自宅へ帰った同級生を除き、残りの3人は宿泊した京都のホテルの近くで「おばんざい」タイムを過ごし、そして高校の後輩が経営している祇園の、とあるBARで時間を過ごしたのでした。このBARにはあらゆるジャンルのレコードやCDが置いてあり、それぞれが「曲にまつわる話」をしリクエストするという趣向で音楽を聴き、「そろそろ」と言われるまで何十年振りかに、夜の更けるのも忘れて時間と空間を楽しみました。
 翌日は弟と二人で、伏見に住んでおられる従姉と、クリニックの診療はご子息に任せて今はもう第一線を退かれている従姉のご主人を訪ねました。私の母親は多くの兄姉の末っ子で、母の兄姉の子どもたちは私とはずいぶん離れていたのですが、この度訪ねた従姉は母の実家に行った際にはいちばん話もし、可愛がってもらった記憶もある従姉で、私が医学部に入学した際には、「医師になるのなら読んでおくほうがいい」と言って、クローニンの「城砦」と「人生の途上にて」を戴きました。生来怠け者の私が大学を卒業して以来、まっすぐに外科医療に取り組んでこられたことや、どのような患者さんであっても正面から向き合って来られたことも、この医療者のガイドとなるような本を読んだこと、そして父の「恥を意識せよ」という教えがあったからだと思っています。
 「象の背中」は、余命を宣告された男性が忘れられない人たちに別れを告げに訪ねていくというストーリーで、そこに男性の家族やかつての恋人が絡んでいく話だったと記憶しています。私は同じことをしようとは思いませんが、これまでもそうだったように、人との触れ合いを大切にしてこれからも生きていきたいと思っています。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No188 コロナ第2弾 -3年目のコロナ-

この国で新型コロナウイルスの感染が最初に報告されたのは2年前(2020年)の1月中頃でしたが、多くの人が意識をしだしたのはその後のダイヤモンドプリンセス号の報道からだったと思います。その当時、2年を超えてまだ感染が収束せずに続いていると思っていた人がどれほどいたでしょうか。100年前のスペイン風邪は収束まで3年かかった、とか言われていましたが、100年前と今では時代が違う、ワクチンも出るだろう、そこまではかからないと私は思っていました。

この新型コロナの感染の中で、われわれはこれまでとは違った考えやスタイルで仕事や生活をせざるを得なくなりました。コロナ以前はマスクをつけた人を見かけるのは冬のインフルエンザの流行期や花粉が飛ぶ頃でしかなかったのですが、今はもう、マスクをしていない人を見かけることが珍しくなっています。多数の人が集まり飲食を行うことも全くなくなりました。旧友と顔を合わせるのが楽しみだった学会もオンラインで参加し、現地に行くことはなくなりました。「日頃から体温測定や体調チェックはしっかりと」、「おかしいと思ったら出勤しない、人と会わない」、「外出はマスクをつけて、人混みは避ける」、「大勢では集まらない」、「飲食は少人数で健康管理ができている知人とだけ」、こんなことが当たり前になっています。われわれはコロナ前の日常に戻れるのでしょうか。あるいはこの不便さが当たり前になるのでしょうか。
それにしても海外(欧米)の映像を見るとマスクをせずに大勢の人が集まり、コロナ前の様子とほとんど変わらないのではないか、と思うほどです。当初は厳しいロックダウンを行っていたのに、と思います。今はとにかく早い時期に感染による自然免疫とワクチンによる免疫で社会全体に集団免疫をつけてしまおう、という考えなのでしょうか。中国は違います。今なお徹底した「封じ込み作戦」を続けています。最近は少しほころびも出ているようですが、上海のロックダウンの画像を見ると、ここまでよくできるものだと思います。さて、容認と規制、どちらが正解なのでしょうか。
この国の感染対策はある意味中途半端にも思えますが、それでも感染者の数は欧米と比べれば少なく、またなんといっても亡くなった人の数も少数で、感染者に占める死亡者数は世界平均の1/4です。国民性にもよると思いますが、それなりに頑張ってきたと言えると思います。ただ最近、若い人のワクチン接種がなかなか進まないことや、感染力が強いオミクロン株の亜種が増えていることなどから、この国の感染対策も「コロナとの共存」へと舵を切りそうな感じです。社会を回していくには回す場と人を確保することが必要です。医療で言えば、医療を行う医療施設と医療従事者が必要です。限られた医療施設、限られた医療者だけの対応では医療崩壊も起こり得ますが、インフルエンザのようにすべての医療機関が外来診療や入院診療を行うようになれば、医療の逼迫問題も解消されるのではないかと思っています。
さて、これからの新型コロナウイルス感染症への対応、どうなっていくのでしょうか。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No187 コロナ禍の4月

「管理者室より」への投稿を最後に行ったのは2019年(令和元年)の12月で、その表題は「令和元年の想い」でした。改元当時、「令和」の意味を「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が育つ」と時の首相が説明され、良い年になればいいがと思っていましたが、令和元年は豪雨災害も起こったり、また病院にとっても逆風の年であった、と私は「令和元年の想い」に記しています。
その最後の投稿から2年少しが経過しましたが、この2年の間はそれまで全く思いもしなかった日々が続いています。新型コロナウイルス感染症の世界です。2020年2月のダイヤモンドプリンセス号の報道以来今日まで、新型コロナに係わる報道を目にしない日はありません。私の勤務する病院で最初に新型コロナの患者さんが入院されたのは2020年3月20日ですが、それ以来今日まで約500人の患者さんが入院されました。病院ではこの2年の間、150回ものコロナ対策会議が定期的に(感染拡大時には週に何度も)開かれ、院内の感染症対策にさまざまな提言をしてくれています。入院時のPCR検査では陰性だった患者さんが入院後に発熱したため再検査をしたら陽性になったケースや当院の職員自身の感染など、怖い思いもしていますが、幸い今まで院内感染は発生しておらず、日頃の感染に対する職員の意識の高さ、それを啓蒙している感染対策室職員の努力に感謝をするばかりです。
さて、この感染症の行く末はどうなるのでしょうか。感染者が減少し、真の意味で収束していくのでしょうか。それとも2類の感染症からインフルエンザのような5類感染症となりマスコミに取り上げられることも少なくなるのでしょうか。第6波はどこの地域でもそれまでに比べて減少の程度が少なく、患者数が比較的多いにもかかわらず重点措置が解除され、そうこうしているうちに3月末には「第7波の入り口」などと言われています。まだまだ先は見えないと感じています。

3月は別れ、4月は出会い、そのシーンを彩るのが桜でしょうか。この時期の出会いや別れにはその光景のどこかに桜の咲くさま、散るさまがあるように思います。子どもの頃は出会いの喜びが大きく、桜も満開の桜を見たいと思っていたように記憶していますが、今は散る桜に共感を覚えています。小雨降る夕暮れの散る桜になぜか胸の痛みを感じるときもあります。今年もいろいろな別れがありましたが、去る人の人生に多くの幸せがあることを願っています。

コロナ禍であっても時は動いていきます。2年間十分我慢をしてきました。安全に気を配りながら少しずつ活動量を上げていかなくてはと思って、「管理者室より」を再開することにしました。

どうかよろしくお願いいたします。

福山市病院事業管理者 高倉範尚


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