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管理者室より 2026年度

更新日:2026年8月6日更新 印刷ページ表示

No241 竣工式

竣工式とは、建物の工事が無事に完了したことを神仏や関係者に報告し、感謝と今後の安全・繁栄を祈るために行う完成記念の式典のことを言うそうですが、私が勤務している福山市民病院の新本館Ⅰ期工事の竣工式が7月25日に行われました。新本館の建設工事は、外来や入院診療を続けながら現地で旧本館を建て替える複雑で時間のかかる工事であり、完成形となる新本館Ⅱ期工事の完成は2031年初めが予定されています。新本館のすべてが完成していないのになぜ竣工式を行ったのか?それは第Ⅰ期工事の完了により、これまで当院にはなかった周産期母子医療センターの機能が備わり、大きな節目としてお披露目の必要があると考えたからです。また2005年に東館に開設した救命救急センターを新本館2階へ移設し、屋上にヘリポートを整備することで、より迅速な救急医療体制が整ったことも理由の一つです。竣工式には約100名のご来賓の方々にご臨席していただき、温かい祝辞や多くの激励の言葉を頂戴しましたが、その一方で、私は病院がこれから果たしていかなければならない責任の重さを強く感じていました。式典に参加していた病院職員も、同じ思いであったのではないかと思っています。

福山市民病院は1977年に現在の地に250床の病院として開設され、急性期病院としてこれまで診療を行ってきました。1977年のこの病院の最初の竣工式の写真が残っています。開設当時、私は卒後5年目の外科医でしたが、偶然にも開設時のメンバーとしてこの病院で働く幸運に恵まれ、生涯の恩師にめぐり逢いました。わずか2年間の在籍でしたが、外科医の心構え、消化器外科の基本、手術に臨む姿勢、学術活動の大切さなど、多くのことを教えていただきました。そして今でも開設時の外科の一員としてこの病院で働けたことを誇りに思っています。

2003年に東館を増築し392床の病院となり、2005年には救命救急センターを開設しました。病院の年報によると、2003年の東館完成時には「東館完成式典」が行われています。なぜ竣工式ではなく、完成式典としたのかは分かりません。さらに2011年から西館の増築工事に着手し、2013年には506床の病院となり、この時も竣工式を挙行しました。

当院は今回の竣工式までに3回の竣工式・完成式典を行ってきました。最初の竣工式では公立の医療機関として圏域の医療に貢献していく決意を示し、2003年の完成式典では救命救急センターの開設を手上げできるまでに成長した病院の姿を、そして2013年の竣工式では、がん医療(高精度放射線治療装置の導入や外来化学療法センターの整備など)や高度専門医療(内視鏡診断・治療センターや集中治療室の整備など)を充実させ圏域の中核的医療機関に成長した姿をご覧いただいたのではないかと思っていますが、これまでの病院の歩みを振り返ると、私はこの病院は竣工式・完成式典を一つの節目として新たなステージの病院へと進化を遂げてきた気がしています。そして、このたびの竣工式もまた、そのような節目でなければならない、と強く思っています。

病院沿革(病床数と式典の変遷)

年月日

名 称

病床数

式典

1977年(昭和52年)

福山市市民病院開院(現本館

250床

現本館竣工式

1985年(昭和60年)

50床増床

300床

 

2003年(平成15年)

東館共用開始

392床

東館完成式典

2004年(平成16年)

6床増床

398床

 

2005年(平成17年)

救命救急センター供用開始

398床

救命救急センター開所式

2006年(平成18年)

2床増床

400床

 

2013年(平成25年)

西館共用開始

506床

西館竣工式

2026年(令和8年)

新本館Ⅰ期供用開始

506床

新本館Ⅰ期竣工式

 

1977 あ あ ​あ
     ​1977年 現本館竣工式         2003年 東館完成式典          2013年 西館竣工式         2026年 新本館Ⅰ期竣工式

No240  初めての手術、初めての身体拘束 

No237の「あれやこれやの三か月」の中で、この3月に自宅で2回転倒したことを書いています。この時はこの転倒がこんなことになるとは想像もしておらず、新年度の忙しい時期もこれまで通り勤務をしていました。ただ、4月に入ってから週末の散歩のときに「あれ?」と思うことが時々起こるようになりました。散歩コースの中ほどに小さな祠があって、私はいつもこの祠に立ち寄り神様にいろいろなお願いをしているのですが、手を合わせているとき体を静止しづらい、と感じるようになりました。それからは、まっすぐに歩けているのか、左右どちらかに傾いていないかなどを、家内にも時に見てもらっていましたが、「別に~」とその頃は言っていました。4月の下旬になっても、体の静止しづらさは変わらず、家内も連休の間「ちゃんと調べてください」と毎日言うので、連休明けの木曜日、頭のMRIを撮像したところ、それなりの硬膜下血腫が見つかり翌日手術を受けました。この手術、頭蓋骨に小さい孔をあけ、硬膜という脳を包む膜と脳実質の間に貯留した血腫を洗い流し、血腫が溜まっていたスペースに細い管を入れ、頭の中に血液などが溜まらないようにする手術です。翌日に術後評価のための頭部CTを撮りましたが、異常はなかったので頭の中に入っていた管が抜かれ、その翌日に退院しました。これまで検査のための入院経験は一度ありますが、手術での入院は初めてでした。おしゃべりの私にも拘わらず、病院の人にもこっそり手術を受けましたが、「手術室で先生の名前を見ました」と何人かの病院職員が病室を覗いてくれた時はなぜか妙に嬉しく感じました。
あ

今回の入院で身体的拘束も経験しました。身体的拘束という言葉、一般の方々には耳慣れないかもしれませんが、要は身体の自由を奪ってしまう行為です。せん妄や認知症、その他の精神症状によって身体の安全保持が困難な状態にあるときにこの身体的拘束なるものを行い、治療を継続する必要があるのです。患者さん自身が私は大丈夫、と思われても、高齢の方で大きな手術を行った場合などには術後せん妄はよく起こります。この身体的拘束を行う場合、3つの要件があります。①患者さんの生命または身体が危険にさらされる可能性が著しく高い状態、②身体的拘束による弊害を考慮しても、他に代替する方法がない状態、③身体的拘束の中断と終了を治療と看護の計画に定めている状態であること、これが3要件です。私は認知症もなく、局所麻酔の手術でもあり、せん妄の可能性はなく(と思います)、身体的拘束は必要ないと思っていましたが、両手にミトンという大きな手袋型の拘束具(手指は伸ばした状態)で一晩拘束されました。頭の中に管が入っていたからだと思いますが、このミトンで全く手が使えず、このことが入院中の一番の苦痛で、二度と拘束はされたくない、と思いました。そのためには健康でなければ、ということです。
あ

主治医によると慢性硬膜下血腫、10~20%の再発率とのことですが、6月末の検査では少量の血腫の残存はありますが、新たな貯留はなさそうなので、このまま治ってくれることを願っています。

No239  かかりつけ医の閉院

「かかりつけ医」という言葉、多くの人が耳にされたことがあると思いますし、実際に「かかりつけ医」を持っておられる方も多いと思います。日本医師会は、「かかりつけ医」とは①健康に関することをなんでも相談できる、②必要な時は専門の医師・医療機関を紹介してくれる、③身近で頼りになる医師、としていて、厚労省のウェブサイトにもそう出ています。医療機関ごとにその役割を明らかにしよう、病院は病院以外では困難な外来医療を、それ以外の外来医療はクリニックにお願いしよう、が国の基本的な方針で、それが「かかりつけ医を持ちませんか」のポスターになるわけです。

私が子どもの頃は人口1,000人ほどのふるさとの村にも開業医がおられ、おなかが痛くなればいつも母が手を引いて連れて行ってくれていました。白い服を着た人が何かを胸やおなかにあてがい、そのあと手でおなかを触ると不思議に痛みが軽くなったような気がしたのを覚えています。私の家がどのような家なのか、おじいさんのこともおばあさんのこともよく知っておられました。小さな村に住むすべての人の「かかりつけ医」だったと思います。

学生時代は病気になることはなく、かかりつけ医はいませんでしたし、大学を卒業すれば自分の勤務する病院で風邪薬なども処方してもらっていたので特段「かかりつけ医」を意識したことはありませんでしたが、家庭を持ち家族が増えると、家内や子どもたちに「かかりつけ医」が必要になりました。偶然ですが40年ほど前、自宅から徒歩数分の距離に同級生結婚をした友人が内科・小児科を開業し、家内や子どもたち、そして孫たちも何かあれば連れて行き、ずっと診てもらっていて大変助かっていました。東京に暮らす長男たちが14年前の夏帰省してきた際、孫が高熱を出したのでそのクリニックで診てもらったところ、その日のうちに「川崎病の疑い」と診断され、市内の総合病院の小児科に勤務していた別の同級生に紹介してもらい、速やかに入院治療を行うことが出来ました。

 そんな私の家の「かかりつけ医」ですが、実は5月いっぱいで閉院しました。継ぐ人がいない、少しゆっくりしたい、自分のやりたいことを楽しんでみたいと最近開かれた同窓会で彼らは語っていました。夫妻そろって人柄もよくて腕もよく、多くの患者さんが集まるクリニックで、閉院は地域の大きな話題にもなっていました。5月最後の土曜日の15時頃、クリニックの前を車で通りましたが、駐車場にはまだ何台も車が停まっており、患者さんから大きな信頼を寄せられていた事を今更ながら感じました。

さて、これからのわが家の「かかりつけ医」です。今は事情通の長女の情報収集の結果を待っているところですが、まだ報告に現れません。彼らのような「かかりつけ医」が見つかればいいのですが。

ポスター

No238 ゴールデンウィーク

ゴールデンウィーク(以下GW)という言葉は、1951年5月の連休の間に封切りされた映画が、盆や正月の封切り映画よりも興行成績が良かったことからこの4月終わりから5月の連休をGWと言うようになったそうです。子どもの頃は学校が休みになるのは嬉しかったと思いますが、家族旅行をするようなこともなく、また何といってもGWよりもっと長い夏休みもあったので、GWを心待ちにしていた記憶はありません。社会に出てからの10数年間はGW期間中1日ぐらいは休暇を取ったことはあるかもしれませんが、特に大学病院の病棟勤務の頃は今のように「チーム制医療」ではなく「主治医制」で、重症患者も多く、休みの日であっても毎日仕事場に出向いていました。私に限れば、卒後数年の間は休みなどほしいと思ったことはなく、この頃は盆、正月の帰省の時を除いて、休みの日であっても朝から晩まで病院にいて、「アッペ(虫垂炎)の患者さんは来ないか」、「外傷の患者さんは来ないか」と急患が来院するのを手ぐすね引いて待っていました。

大学病院の病棟勤務を終え、私は外科医3人、外科病床数25床程度の広島県北の病院に赴任しました。ちょうど家を建てたばかりで単身赴任をしたので、土曜の午後から月曜の朝まではできれば家族の元に帰りたいと思い、患者さんの状態をスタッフ3人で共有するために、月曜から金曜まで毎日朝夕2回、3人で回診することにし、外科の患者さんの主治医は3人であることを患者さんや看護師さんに徹底しました。この「チーム制診療」はよかったと思っています。毎週土曜の午後から月曜の朝まで3人のうちの1人は完全にフリーで、私は3週間に1度、自宅に帰ることができました。休日でも2人は病院の近くにいるので、手術にも対応できます。この病院には3年間勤務しましたが、私がフリーの時に「ヘルプ」の連絡が入ったのは1回きりで、連絡を受けたあと病院に向かい、無事に手術を行うことができました。

さて、GWです。年齢を重ね、スタッフの数が揃っている病院に勤務するようになってからはGWをゆっくり過ごせるようになりました。2011年に両親が亡くなりましたが、それまではGWは父母の元に帰省することを「いつものこと」にしていました。その後のGWは子供たちが自宅に集まり食事をしたりもしていましたが、孫たちも自分の時間が必要になったり、受験を迎えるようになり、次第に家族が集まることは少なくなってきました。GWだからと言ってどこかに出かけることはなく、両親が亡くなり帰省をしなくなった2012年以降、GWの間に丸1日、自宅を離れたのは1回きり、茨木市で開かれていた父の従兄弟の版画展を見に行き、その足で京都に住む従姉を訪ねた時だけでした。

2012年から綴っている日記を見てみると、連休の間は記した文字の量が年々少なくなっており、アクティビティは低下し、きっと感動することも少なくなり、だらしなくGWを過ごしてきたのかが分かります。さて、今年のゴールデンウィーク、どうなのでしょうか?5連休になりますが、予定は一切なく、周りには家内がいるだけです。報告できるような良いことがあればいいのですが。

 

添付した写真は2023年のGWに出かけた版画展の展示会場で購入した版画集です。四国88か所の寺院やへんろみちの風景が収載されています。

 

No237 あれやこれやの三か月、そして4月

早いものでもう4月になりました。時は同じ速さで流れているはずですが、昔から「一月は往(い)ぬる、二月は逃げる、三月は去る」と言われ、そのことは若い頃から実感はしているものの、最近はさらに速くなったように感じています。正月明けの「時の流れ」のこの慣用句、私は昔の人たちが年はじめにあれこれ目標をたててみても、さまざまな行事も多く、なかなか手につかないまま年初の三月(みつき)が過ぎてしまう様をこのように言ったのだろうと思っています。

さて、私の年明け三か月、事件がいろいろありました。年始めの互礼会の後、同じ互礼会に出席した病院仲間と会食をしましたが、その帰り、何かに引っ掛かった記憶もないまま、左足でケンケンしながら前のめりに倒れてしまいました。右足を出せば倒れなかったと思いますが、その右足が出ませんでした。不思議な経験をしました。こんな1月、1月はそこそこ忙しく、あっという間に往んでしまいました。2月は4月採用予定の医師面接が数多くあり、また診療報酬改定に関する各種のwebセミナーには可能な限り参加もし、尊敬する先輩の傘寿のお祝いもあったりして、忙しくも楽しい月でしたが、昨年、No224「大丈夫か、この外科医」で書いた高校の同窓会に出席した帰りの新幹線、岡山駅を乗り越してしまいました。車掌さんが新倉敷駅を過ぎたあたりで肩を叩いて起こしてくれ、どうにか広島で上りの「みずほ」に乗り換え無事に帰宅できましたが、この話を家内に話すと、「岡山駅の手前で起こしてくれたらよかったのにね」と、家内らしい返事がありました。また、2月下旬から3月初めにかけ軽い発熱、せきが続き、インフル、コロナの検査は陰性であったものの、またまた「えへん虫」が喉元辺りに住みつき、4月近くまで私の集中力を低下させています。それに加え、3月には屋内で2回もこけてしまいました。近くに家内がいましたが、今回は家具類を壊すことがなかったので、さすがに私を心配してくれましたが、根拠なく呑みすぎが原因と決めつけ、「呑みすぎないで下さい」と指導を受けました。この年初め三か月の締めですが、ずっと以前から抜歯を薦められていた歯を2本抜きました。いつまで元気か分からないので先延ばしにしていましたが、痛みが強くなったので年貢を納めました。こんな感じで私自身にはいろいろあった三か月ですが、病院の方は、病床利用率や患者さんの一人当たり入院単価が前年の数値を上回るようになってきました。そして4月、新しい年度を迎え、病院には89名が新しく入職しました。それぞれの部署で研修・研鑽を続け、やがて大きな戦力に成長してくれると信じています。病院の体制も変わっています。私と前任地の時代から肝胆膵チームとして一緒に働いていたU先生が新しく院長に、大学外科に入局し最初に赴任した病院で私のもとで研修を行っていたI先生と、私がこの病院に還ってきたとき外科病棟の師長であったU看護部長が副院長に就任しました。新しい風を起こしてくれると期待しています。
リハビリ公園


福山市病院事業管理者 高倉範尚