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管理者室より 2025年度
No228 私の「ながしま」
2025年(令和7年)6月3日、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督が亡くなられました。私と同世代の男の子たちにとって長嶋さんは一番のヒーローではなかったか、と思っていますが、私のヒーローも「ながしま」でした。
小学5年生の秋、同級生の家に遊びに行ったとき、彼のお兄さんが読んでいた野球雑誌を見せてもらいました。かなり分厚い本で「野球界」という雑誌だったように覚えています。その中に「ながしま」は立教大学の学生で、学生最後の秋のリーグ戦でホームランを打ち6大学野球記録を塗り替えた、ことなどが書かれていました。当時、実家にはテレビがなく、私は「ながしま」のプレーを見ることはありませんでした。
父が阪神ファンだったので、同じチームは応援したくないと思って小学生の頃から巨人を応援し、ラジオや新聞でプロ野球の知識を得ていました。個人的には「打撃の神様」と言われていた川上哲治選手を応援していましたが、すでに最盛期は過ぎておられ、私は「ながしま」が巨人に入団してくれることを熱望していました。そして想いが叶い、1958年、「ながしま」が巨人に入ってくれたのです。
「ながしま」はオープン戦で7本のホームランを放つなどし、大いに期待をされ、4月5日後楽園球場での開幕戦を迎えました。この試合も私はリアルタイムでは見ることも聴くこともできませんでしたが、結果はなんと4打席4三振、すべて空振り三振の鮮烈なデビューであったことを翌日の新聞で知りました。
それからは毎朝、新聞のスポーツ欄に目を通す日々が始まりました。「ながしま」が打ち、巨人が勝利するのがベストですが、やがて「ながしま」が打てば、巨人が負けても気にならなくなり、巨人が勝っても「ながしま」が打たなければ野球をつまらなく思っていました。「ながしま」がノーヒットに終わった翌日の朝ご飯は母に怒られても食べずに学校に行っていました。悔しくて食事を取る気にならなかったのです。小学校、中学校の学区対抗のソフトボールはサードが私の定位置でした。打順も「ながしま」の打順でした。身体は大きいほうだったので、それなりに飛ばしていました。守備でも「ながしま」になっていました。小学校でも中学校でもトイレの位置は右から3番目、好きな数字は3、何でも「3」を選んでいました。やがて実家にテレビがはいり、野球中継がある日はほとんど見ていました。
「ながしま」は1974年10月14日、中日ドラゴンズとの引退試合で444本目のホームランを放ち、輝かしい実績と「不滅」のスピーチを遺し現役を引退し、翌年、「ながしま」のいない巨人の監督になりました。長嶋さんが監督の間はそれでも巨人を応援していましたが、1981年10月21日に監督を解任されたその日から巨人への熱が冷め、その翌日から読売新聞の購読も辞めました。
少年時代の私に多くの感動を与えてくれた長嶋さんに心からの感謝を捧げ、ご冥福をお祈りいたします。合掌
No227 福山の5月はばら
今年も早6月、時は立ち止まることなく進んでいます。私のここまでの5か月もいろいろなことが起こり、身体が2つ、3つあればいいのに、と思うばかりの日々でした。
私はこの「管理者室」に仕事場である福山市のことをNo93、120、162で書いていますが、もう一度、書いてみたいと思います。
この10年の間、福山市にはさまざまなイベントがありました。まずは市制100周年の事業です。福山市は広島県では広島市、尾道市、呉市に続いて4番目、1916年に市制が敷かれましたが、現在では尾道市や呉市の人口を超え、中国地方では4番目の人口規模の市になっています。人口が多ければいいのかはさておき、多いほうがさまざまなサービスを受けやすくなるとは思います。医療もその一つで、過疎地域の医療はこれからさらに厳しくなると思われます。次の事業は築城400年事業でした。福山城の築城は1622年であり、2022年が築城400年に当たる年で、その年を目標にお城周辺の整備や、天守閣北側の鉄板張り復元、月見櫓や御湯殿の改修、福山城博物館のリニューアルなどが行われました。城内の木々の伐採、手入れもあって、特に夜間はライトアップされた白く美しいお城を見ることができ、なかなかの景観だと思っています。福山城の天守は終戦間際の1945年8月8日に米軍の空襲で焼け落ちましたが、市制50周年の1966年に寄付を募るなどして復元され、市民を勇気づけたと聞いていますが、この令和の大普請も長く伝えられるのではないか、と思っています。そして、この10年のフィナーレを飾った事業が5月に開催された「第20回世界バラ会議福山大会2025」だったと思います。
福山市は100万本の「ばら」のまち、と言われていますが、この始まりは終戦間もない1945年8月に「戦後の悲しみにあふれた町に笑顔を」と、行政と市民が一体となり市内の公園にバラの苗1000本を植えたのが最初で、その公園は今「ばら公園」と呼ばれています。福山市では5月になると、50年ほど前から毎年「ばら祭り」が開かれており、また2018年からは同じ時期に「ばらのまち福山国際音楽祭」も開かれ、歴史・文化と芸術が一体となり、心地よい空間にいることを誇りに思える「時」が流れています。そして、今年それにもう一つ「第20回世界バラ会議福山大会2025」が加わりました。「世界バラ会議」は3年に1回、ばらの研究者や生産者、愛好家、芸術家などが集まり、最新のばらに関する情報などの講義や開催国のバラ園の視察、優秀庭園賞の決定、栄誉の殿堂入りのばらの審査などが行われる会のようです。私はバラに限らず花にはうとく、また仕事もあり、市内のバラを見に出かけたり、講義も聴いたりしていませんが、開会式と閉会式に参加しました。開会式で「100万本のばらのまち福山応援大使」の手嶌葵さんが、これまで耳にしたことのない独特の歌い方、歌声で歌われた「The Rose」や「La vie en Rose」に心がうたれました。福山市ではこれまで長い時間をかけてローズマインドが育まれてきましたが、その「思いやり、優しさ、助け合いの心」を大切にすれば、「バラ色の人生」がきっとくる、そんな風に思いました。
No226 辞める話、止めた話
まず辞める話。5月末で社会保険診療報酬支払基金の審査員を辞めることになりました。新しく定年制が適用されたようです。支払基金、何それ?と思われると思いますが、簡単に説明すれば、医療機関から提出された診療報酬明細書(レセプト)の審査および保険者(健康保険組合、全国健康保険協会など)から医療機関への診療報酬の支払いを仲介しているのが支払基金で、審査員はレセプトをみて適正な保険診療が行われているかどうかチェックをするのが役割です。
2000年当時、勤務していた病院の先輩が退職される際に、「支払基金の審査はこの病院の主任部長の仕事だから」と言われ、その役を引き継いで25年、よくぞ続いたと思っています。本来なら広島から福山へ勤務が変わった際に辞めたかったのですが、当時の審査委員会の重鎮に「県東部からの審査員も必要だから」と言われ、続けました。支払基金での保険審査は私自身が日常の診療を行う上でも勉強になり、正しい診療を行わなければ、との想いを新たにする場所・時間でしたが、診療報酬点数の設定や算定のルールなどには疑問を感じているところもありました。支払基金に行けば若い頃の同僚や後輩にも会うことがあり、楽しく仕事ができていましたが、最近はオンライン審査も始まり、広島まで出かける回数は減り、彼らとの交流の機会も減ってきました。いい潮時だと思っていますが、これからもレセプト審査で培った知識や考え方は今一緒に働いている仲間たちに伝えていこうと思っています。
そしてもう一つ、この4月から止めたことがあります。私は子供の頃から頭にコンプレックスとか、何かしら思い通りにいかないことを持っていました。小学生の頃は頭が同級生たちより大きく、普通サイズよりかなり大きな帽子でないと頭が入りませんでした。また、私の弟は小さい頃から髪の毛を伸ばしていましたが、私はなぜか父から「ダメ!」と言われていて、高校を卒業するまで丸刈りでした。髪の毛を伸ばすようになると頭が余計大きく見えますが、大学生になると今も親交のある私より大きな頭の先輩と出会い、サイズの呪縛からは解き放たれました。40歳代の後半になると頭に少しずつ白いものが目立つようになりました。そのうち家内が一言「染めようか?」、言いなりの私は「うん」、最初の頃は家で染めてもらっていましたが、早々に頭皮がかぶれだし、やがて家内と同じ美容院に行くようになりました。「カットとカラー」が定番になり30年近く。カットをすると側頭部は白く、頭頂から後頭部にかけては黒茶色が少し抜けたような色のツートンカラーとなり、確かに年相応に見えます。これまではこの後カラーをしてもらい、「10歳以上は若く見えます」と担当の美容師さんには言われている「見た目」に仕上がるわけですが、4月からカラーを止めました。カラーで修飾しない自分の頭を見てみたい、というのが理由です。
さて、周りの人はどう見たか、家内の感想は「ふ~ん」でした。病院で朝一番に私と会う女性は部屋のドアを開けた途端、「ギャア!おしゃれ~」、その他、「だんでぃ」と思わず口走った人もいましたが、その他は性別を問わず何の声も聞かれませんでした。
福山市病院事業管理者 高倉範尚
No225 病院がつぶれる!
3月のある朝、TVを見ていると、住みたい街ランキングで常に上位の吉祥寺から救急病院がなくなった、というニュースが流れていました。街の人たちのインタビューを聞くと、「救急病院が近くにないと急病のときに不安」などを口にされていました。調べてみると、最後まで残っていた病院は建て替えての存続を予定していたようですが、建築費用の高騰でそれが困難となり、昨年9月末で閉院となったそうです。この病院は吉祥寺で唯一の二次救急病院であったため、住民の存続・再開の思いも強く、その声が届いたのか最近、都内の医療法人が病院を継承することになったとのことですが、再開は数年後になる見込みで、住民の不安はもう少し続くことになります。
吉祥寺に限らず、今、「病院医療の崩壊」が始まろうとしています。さまざまな病院団体から「ご存知ですか?あなたの街の病院がいま危機的状況なのを!!地域医療はもう崩壊寸前です」とか、「今のままの診療報酬では倒産する病院も」などの声明が出されていて、国立大学病院でさえ、「42ある国立大学病院のうち32病院が2024年度の収支は赤字見込みで、赤字額は総額281億円にのぼる」と発表しています。
コロナの時期から低迷していた病床利用率は改善傾向にはあるようですが、日本病院会や日本病院協会、全国自治体病院協議会などの6病院団体が2024年度の診療報酬改定後の病院の経営状況を調査した結果によると、改定前の2023年度に比べ改定後の医業収益は伸びているものの、医業費用はそれ以上に大きく増加しており、100床当たりの平均の医業収益は11億1,953万円、医業費用は11億8,645万1,000円と6,700万円あまりの赤字となっています。この原因として、給与費、診療材料費、委託費、水道光熱費など経費、控除対象外消費税等負担額の増加が挙げられていました。これまでの診療報酬改定では各地域で高度医療や救急医療を担っている急性期病院の人的配置を促すことで増収となるような改定が行われてきたと理解していますが、人員増加による人件費増加や諸物価の高騰、特に急性期病院では政府が消費税分は含まれているとする診療報酬では賄いきれない控除対象外消費税(当院の場合だと12億円ほど)など、今、急性期病院にはすさまじい逆風が吹いています。「病院がつぶれる!」は決して冗談ではありません。
2025年春闘の賃上げ回答の映像も目にしましたが、多くの企業で景気のいい数字が並んでいて、はて、これほど景気の悪い医療の世界に人が来てくれるだろうかと、ますます心配になりました。また、自民・公明・維新は次年度医療費の4兆円削減を目指すことで合意しました。医療に無駄や過剰があり、それを正していくことで削減を図るのなら理解はできますが、手当をすべきところに手当をせずに削減を図るようなことになれば、国がつぶれる始まりになりかねないと思っています。
福山市病院事業管理者 高倉範尚