ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 病院紹介 > 管理者室より > 管理者室より 2025年度

本文

管理者室より 2025年度

記事ID:0005842 更新日:2025年12月1日更新 印刷ページ表示

 

No233 何が残せるか

今年最後の投稿になるので、いちばんグッときた話を書きたいと思います。

胃の上部に発生した胃がんは「噴門部がん」と言われ、早期がんの場合は内視鏡を使った切除術や噴門側胃切除が行われています。また高齢の方で早期癌よりわずかに進行している程度であれば機能面から胃全摘術を行わずに噴門側胃切除術を行うこともあります。しかし、噴門側胃切除をすると、胃内容の食道への逆流を防止する機能を持つ噴門を切除することになり、手術後に胸やけや食後の胸痛などをもたらす逆流性食道炎というやっかいな合併症が起こることがあり、その防止のための食道と残胃の再建法(直接つなぐ場合の工夫や食道と残胃の間に小腸を置く再建法など)がいくつか考えられてきました。いずれにしても胃液や胆汁などを食道内へ逆流させない(あるいは、よりさせにくい)再建法の開発がこの領域の手術では課題でした。私も少ないながら噴門側胃切除を経験してきましたが、その再建に際しては何の疑問を持つこともなく、この方法が良いのでは、と言われていた方法で行っていました。

以前、No37で書いた私の尊敬する先輩ですが、先輩は消化管を専門にした同門の誰もが知っているスーパー外科医で、後年聞いたところによると、若い頃から噴門側胃切除後の再建法について「より良い再建法」はないか、と常に考えておられたようです。そしてついに、先輩はこれまで誰も考えつかなかった再建法を開発し、1998年と2000年に医学雑誌にその再建法(観音開き法再建)を発表されました。この新しい手術法は私たちの所属している大学外科の関連病院で主に行われていましたが、その後、同門の中では最も多くの胃がん手術を行っている病院の後輩医師が国立がんセンター中央病院でこの手術のデモを行ったところ、がんセンターの医師がこの術式の逆流性食道炎の防止効果に着目し、この再建法を噴門側胃切除後の再建法として採用しました。この再建法は、がんセンターの発信力と相俟って、やがて韓国や中国などアジアに広まり、現在はオランダからもこの再建法の優位性を示す論文が発表されているようで、この再建法は先輩の名をとって「○○法」と論文でも紹介されているとのことです。

今年9月、岡山市で「第100回中国四国外科学会総会」が開かれました。会長は私たちの出身教室の教授で、その中で「時代は変わる、手術も変わる~中国四国外科学会の歴史と観音開き法再建~」と題した特別企画が開催され、講演のトップバッターとして先輩が「胃上部早期癌・全摘から噴切へー観音開き法の開発―」を発表されました。そのあと、同門の後輩の腹腔鏡下やロボット支援下のこの手術について発表が続き、誰も考えつくことがなかった先輩の開発した手術法が後輩の力も得ながら普遍化されてきたこれまでの歴史を、胸に熱いものを感じながら会場で聴講しました。

人は何が残せるか?自分自身を振り返ると何も残せていないことに気づきます。やはり想いを持ち続けなければ残せるものは見つからないことを先輩からまた学びました。

No232 自治体病院学会紀行

10月末、群馬県高崎市で「第63回全国自治体病院学会 in 群馬」が開催され、出席しました。大学にいる頃は自分が所属している学会の学術大会に参加するだけでしたが、大学を離れ赤十字病院や国立病院に勤務していた頃には赤十字医学会や国立病院総合医学会に参加していました。自治体病院学会もそうですが、開設母体が同じである病院の学会は医師の参加は少なく、看護師や薬剤科、放射線科などの医療技術系の職員、事務職など病院で働くさまざまな職種の人たちの発表が多く、ランチョンセミナーのチケットの入手が極めて困難になる程盛況で、今回の学会も病院からは8職種17人が参加し、14題の演題を発表しました。

私が初めて全国学会で発表したのは1978年、医師になって5年目でしたが、上司からは「学会は演題を持って行くもの」と教えられ、「初めての土地ならばその土地も知らねば」と、勝手に自分なりの解釈も付け加え、これまで多くの学会に行きましたが、この度の群馬県、実は初めて訪れる県でした。

まずは岡山から東京へ、今回は頂上辺りにうっすら雪化粧した富士山を見ることができました。私は富士山を見るたびにいつも感動し、この国に生まれた幸せを感じています。東京から高崎には初めての上越新幹線で向かいました。進行方向に向かって左側の窓際の席に座り、上野で地下を抜けてからはずっと窓外の景色を眺めていましたが、そのうち高いビルがなくなると、はるかかなた西の山並みが目に入るようになり、その山並みを左の方へ目で追っていくと、どっしりとした大きな山がポツンと見えました。びっくりしましたが、まごうことなくそれは富士山でした。富士山の姿を遮るものがない?そこで初めて広大な関東平野のただ中にいることを思い起こしました。その日の富士山は大宮駅を過ぎてもしばらく見えていましたが、そのうち頚が痛くなり見るのを断念しました。すると今度は同じ左手の前方に奇妙な形の山?が見えてきました。なんと山の上が平らなのです。最近眼も悪くなっており、ひょっとして遠くのビルを見ているのか、とも思いましたが、やはり山のようです。あとで調べてみると群馬県と長野県の県境の荒船山という山でした。標高1,422mです。富士山も荒船山も写真を撮りましたが今一つなので画像を探して載せています。
大宮駅から見た富士山 ←大宮駅から見た富士山 荒船山 ←荒船山

 

たった50分の上越新幹線の旅でしたが、初めて目にしたワクワクする山たちの姿、初めて体験した関東平野の広大さ、やはり知らない土地へ行くことは何かを感じさせてくれます。

10月30日、31日の学会ではもちろんしっかり勉強しました。当院からの発表も良かったと思っています。参加した職員の間で多くを語り親交を深めました。コロナを契機に職員同士の親交の機会が減り、職場での笑顔が減っているように感じています。アルコールが必須とは言いませんが、顔と顔を合わせ、膝を交えて話すことが、職場でのコミュニケーションや人と人の繋がりを深めてくれると私は信じています。
懇親会        集合写真  

 

No231 最近響いた言葉

NHKの番組に「ドキュメント72時間」という番組があります。2006年ごろから始まった番組ですが、ある場所に72時間テレビカメラを置き、そこを訪れる人たちにインタビューをして、さまざまな人間模様を観測する、という番組です。私も何年か前から時々みるようになりました。取材クルーは、この国の北から南までさまざまなところに行っているようです。この番組は年の瀬に視聴者の反応が大きかった回の再放送を何本かまとめて行っているので、興味のある方にはおすすめします。

9月中頃に放送された「ドキュメント72時間」は長崎の原爆記念日8月9日頃の3日間、長崎駅前の県営バスターミナルにカメラを据えてそこに集う人達の人間模様を切り取った内容でした。インタビューを受けていた人が「九州を旅するなら鉄道よりバス、便利だし安いんです」と言っていましたが、カメラを据えていたのがお盆前でもあり、ターミナルはかなりごった返していました。

放送の中で、奥様の遺影を風呂敷に包んだ男性は、「妻が今年の2月に亡くなりました。妻は在日韓国人でしたが、かつて九州で隠れキリシタンが迫害されていたことを知り、自身の身の上と重ねシンパシーを感じていました。妻を偲んで隠れキリシタンの地の巡礼を続けています」と語りバスに乗られましたが、人生の伴侶との日常はひとり身になっても続くのだ、とフッと思いました。番組の最後で、20歳前後の若い女性が2人、インタビューを受けていました。これから福岡に「推し」のライブに行く、と話していました。彼女たちは発達障害があるとのことで、知能のレベルも小学3年生くらい、と隠すことなく話していてびっくりしました。発達障害、自閉症スペクトラム、学習障害を持つ1人は保育士をしていて、「今は自立に向けて家族と別居している。自分で自分のことができるようになったら家に帰れる。子どもの頃、このバスターミナルは友達や親戚の人と別れるばかりでさびしい場所だった。しかし今は、この友達と出会えていろいろなことができるようになり、この場所は外へ出ていく集まりの場所、始まりの場所、スタート地点になった」と目を輝かせていました。この女性はもう間もなく家族の待つ家に帰れるのではないかと思い、胸に迫るものを覚えました。

そして同じ9月、ウォーキングをしながら何気なく聞いていた曲の歌詞が耳に引っかかりました。これまで数えきれないくらい聴いていた徳永英明さんがCoverしている今井美樹さんの「PRIDE」の中の「優しさとは 許し合うことを知る 最後の真実」という言葉です。これまで一度も気に留まらなかった歌詞ですが、なぜ響いたのでしょうか。私はコロナを境に人と人とのつながりが変わってきたように感じていて、「人への優しさ」、「相手へのリスペクト」を声に出したいと思っているからでしょうか、この経験も新鮮な驚きでした。

No230 お酒の話

今年の夏も暑い夏でした。夏のお酒と言えばビールでしょうか、キンキンに冷えたビールを一気に、、、この夏、皆さんもそんな機会があったかと思います。私もこの夏は子供や孫たちが半年ぶりに集まってくれ、食べたり飲んだり心地よい時間を過ごすことが出来ました。

私が子どもの頃、自宅には料理用のお酒はあったかもしれませんが、家族の中でアルコールを嗜む者はなく、お酒もビールも目にしたことはありませんでした。法事などで親戚の人が集まるときは酒屋にお酒を買いに行き、ふるまっていたことを覚えています。

そんな私が初めてアルコールを口に入れたのは京都で浪人生活を送っているとき、寮の友人からうまく勧められウイスキーを飲んだのが初めてで、なんとぶっ倒れてしまい、寮母さんが呼んでくれた医師の診察まで受けました。その時は両親に申し訳なく、2度と酒は飲むまい、と深く反省しました。

大学に入り、10数人下宿生のいる賄付きの3畳一間のアパート形式の下宿屋で6年生活し、あの日の決意は先輩たちの圧力と私の意志の弱さで破られてしまいました。学生の頃はお酒を飲んでも気持ちよくなることはなく、飲んでいるうちに気持ち悪くなり、たいていもどしていたのですが、不思議なことに時が経つとそれが無くなりました。自分では自分の飲める量が分かってきて限度を超えて飲まなくなったのだ、と思っていましたが、どうもそうではなく、身体が次第にアルコールに馴化して強くなったのではないかと思いました。

「酒は百薬の長」と言います。これが本当なら酒呑みさんは嬉しいと思いますが、もちろんそんなことはありません。ただ適量ならお酒を飲む人のほうが虚血性心疾患や脳梗塞、2型糖尿病になりにくいというデータがあるようで、また飲酒量と死亡率の調査でも、男女とも非飲酒者より1日平均アルコール消費量23g未満(日本酒1合未満)ならば飲酒者のほうが死亡リスクは低くなっています。つまるところ、適量ならば身体にはいい、は当たっているということでしょうか。ちなみに公益財団法人長寿科学振興財団の「長寿ネット」には「アルコールの適量」としてビール(5度)ならば中ビン1本、以下、日本酒(15度)1合、焼酎(25度)0.6合、ウイスキー(43度)ダブル1杯(60ml)、ワイン(14度)1/4本(約180ml)、缶チューハイ(5度)1.5缶(約520ml)と書かれていました。

私の酒量を紹介するのは控えますが、実は数か月前から週に2日、一切お酒を飲まない日を作りました。いわゆる休肝日ですが、休肝日にお酒が飲みたくなることは全くありません。そして一つ分かりました。私は全く飲めない父方より、少しは飲める母方の血筋のほうが強いのか、と思っていましたが、休肝日に飲んでいるノンアルの飲み物でも相当気持ちよくなりよく眠れるので、ちょうどいい塩梅のブレンドではないか、と。

No229 北海道で39度

暑い毎日が続いています。2025年7月24日、ロコソラーレの本拠地、北海道北見市の最高気温が39.3度だったそうです。びっくりです。暑くなりだしてから「昔はこうだった、ああだった」という話題がしばしば私の周りでは出ています。ある人が「家には扇風機しかなかったのに、それほど暑くなかった」、「朝のラジオ体操のときは涼しかったよ」、「そう言えば最近夕立ってあまりないね」など、昔の記憶を手繰りながら話しています。小学生の頃は日記をつけていてその日の気温も書いていたはずなのに、実際どれくらいの気温だったのかどうしても思い出せません。夏の暑い盛りに遊びまわったり、登校日に炎天下で校長先生の話を聞いたりしていても今でいう熱中症のような状態になって倒れる子どもは見たことがありません。

1年のうちで最も平均気温が高い月は8月です。同様に1日の最高気温の月平均値や最低気温の月平均値が高いのも多くは8月です。私は広島県の出身ではありませんが、これまで一番長く仕事をしてきた広島県の8月の気温について少し調べてみました。気象庁のデータでは1879年(明治11年)からの日平均気温の月平均値。日最高気温の月平均値、日最低気温の月平均値が分かりますが、私が真っ黒になって遊びまわっていた小学6年時、1959年(昭和34年)8月の日平均気温、日最高気温、日最低気温の月平均値はそれぞれ26.8度、30.9度、23.2度でした。一方2024年8月のそれらは順に30.7度、35.5度、27.2度となっており、平均気温では3.9度、最高気温平均値では4.6度、最低気温平均値では4度高くなっており、「昔はこんなに暑くなかった」は事実で、まさに異常です。

私は11年前、広島県で土砂災害が発生した際に「異常気象」と題した短文をこの「管理者室より」に投稿しています。異常気象の大きな原因は地球の温暖化にあり、その原因はわれわれ人類が化石燃料を使い二酸化炭素をまき散らし、また樹木を伐採しながら山や森を切り拓き、土の上にはアスファルトが敷かれ、建物もコンクリートの塊になっていったから、などと書いています。より快適、より便利を求めていった「つけ」の一つがこの異常気象であり、私もそれに加担してきた1人だと思っています。

先ほどの気象庁のデータでは札幌市の2024年8月の日最高気温の平均値は28.4度で50年前の平均値と比べ3度上昇しています。さらに今年は30度を超える勢いで、7月のデータでは目下30,3度となっています。このままの勢いで温暖化が進行すれば、2100年には世界の平均気温は最大6度以上上がる、と言われています。北海道は亜熱帯化し、バナナやマンゴーが栽培されているかもしれません。南太平洋の島々の水没や北極クマも心配です。

地球に暮らすみんなが協力してこの星の温度少し下げないと大変なことになりそうです。

No228 私の「ながしま」

2025年(令和7年)6月3日、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督が亡くなられました。私と同世代の男の子たちにとって長嶋さんは一番のヒーローではなかったか、と思っていますが、私のヒーローも「ながしま」でした。

小学5年生の秋、同級生の家に遊びに行ったとき、彼のお兄さんが読んでいた野球雑誌を見せてもらいました。かなり分厚い本で「野球界」という雑誌だったように覚えています。その中に「ながしま」は立教大学の学生で、学生最後の秋のリーグ戦でホームランを打ち6大学野球記録を塗り替えた、ことなどが書かれていました。当時、実家にはテレビがなく、私は「ながしま」のプレーを見ることはありませんでした。

父が阪神ファンだったので、同じチームは応援したくないと思って小学生の頃から巨人を応援し、ラジオや新聞でプロ野球の知識を得ていました。個人的には「打撃の神様」と言われていた川上哲治選手を応援していましたが、すでに最盛期は過ぎておられ、私は「ながしま」が巨人に入団してくれることを熱望していました。そして想いが叶い、1958年、「ながしま」が巨人に入ってくれたのです。

「ながしま」はオープン戦で7本のホームランを放つなどし、大いに期待をされ、4月5日後楽園球場での開幕戦を迎えました。この試合も私はリアルタイムでは見ることも聴くこともできませんでしたが、結果はなんと4打席4三振、すべて空振り三振の鮮烈なデビューであったことを翌日の新聞で知りました。    

それからは毎朝、新聞のスポーツ欄に目を通す日々が始まりました。「ながしま」が打ち、巨人が勝利するのがベストですが、やがて「ながしま」が打てば、巨人が負けても気にならなくなり、巨人が勝っても「ながしま」が打たなければ野球をつまらなく思っていました。「ながしま」がノーヒットに終わった翌日の朝ご飯は母に怒られても食べずに学校に行っていました。悔しくて食事を取る気にならなかったのです。小学校、中学校の学区対抗のソフトボールはサードが私の定位置でした。打順も「ながしま」の打順でした。身体は大きいほうだったので、それなりに飛ばしていました。守備でも「ながしま」になっていました。小学校でも中学校でもトイレの位置は右から3番目、好きな数字は3、何でも「3」を選んでいました。やがて実家にテレビがはいり、野球中継がある日はほとんど見ていました。

「ながしま」は1974年10月14日、中日ドラゴンズとの引退試合で444本目のホームランを放ち、輝かしい実績と「不滅」のスピーチを遺し現役を引退し、翌年、「ながしま」のいない巨人の監督になりました。長嶋さんが監督の間はそれでも巨人を応援していましたが、1981年10月21日に監督を解任されたその日から巨人への熱が冷め、その翌日から読売新聞の購読も辞めました。

少年時代の私に多くの感動を与えてくれた長嶋さんに心からの感謝を捧げ、ご冥福をお祈りいたします。合掌

No227 福山の5月はばら

今年も早6月、時は立ち止まることなく進んでいます。私のここまでの5か月もいろいろなことが起こり、身体が2つ、3つあればいいのに、と思うばかりの日々でした。

私はこの「管理者室」に仕事場である福山市のことをNo93、120、162で書いていますが、もう一度、書いてみたいと思います。

この10年の間、福山市にはさまざまなイベントがありました。まずは市制100周年の事業です。福山市は広島県では広島市、尾道市、呉市に続いて4番目、1916年に市制が敷かれましたが、現在では尾道市や呉市の人口を超え、中国地方では4番目の人口規模の市になっています。人口が多ければいいのかはさておき、多いほうがさまざまなサービスを受けやすくなるとは思います。医療もその一つで、過疎地域の医療はこれからさらに厳しくなると思われます。次の事業は築城400年事業でした。福山城の築城は1622年であり、2022年が築城400年に当たる年で、その年を目標にお城周辺の整備や、天守閣北側の鉄板張り復元、月見櫓や御湯殿の改修、福山城博物館のリニューアルなどが行われました。城内の木々の伐採、手入れもあって、特に夜間はライトアップされた白く美しいお城を見ることができ、なかなかの景観だと思っています。福山城の天守は終戦間際の1945年8月8日に米軍の空襲で焼け落ちましたが、市制50周年の1966年に寄付を募るなどして復元され、市民を勇気づけたと聞いていますが、この令和の大普請も長く伝えられるのではないか、と思っています。そして、この10年のフィナーレを飾った事業が5月に開催された「第20回世界バラ会議福山大会2025」だったと思います。

福山市は100万本の「ばら」のまち、と言われていますが、この始まりは終戦間もない1945年8月に「戦後の悲しみにあふれた町に笑顔を」と、行政と市民が一体となり市内の公園にバラの苗1000本を植えたのが最初で、その公園は今「ばら公園」と呼ばれています。福山市では5月になると、50年ほど前から毎年「ばら祭り」が開かれており、また2018年からは同じ時期に「ばらのまち福山国際音楽祭」も開かれ、歴史・文化と芸術が一体となり、心地よい空間にいることを誇りに思える「時」が流れています。そして、今年それにもう一つ「第20回世界バラ会議福山大会2025」が加わりました。「世界バラ会議」は3年に1回、ばらの研究者や生産者、愛好家、芸術家などが集まり、最新のばらに関する情報などの講義や開催国のバラ園の視察、優秀庭園賞の決定、栄誉の殿堂入りのばらの審査などが行われる会のようです。私はバラに限らず花にはうとく、また仕事もあり、市内のバラを見に出かけたり、講義も聴いたりしていませんが、開会式と閉会式に参加しました。開会式で「100万本のばらのまち福山応援大使」の手嶌葵さんが、これまで耳にしたことのない独特の歌い方、歌声で歌われた「The Rose」や「La vie en Rose」に心がうたれました。福山市ではこれまで長い時間をかけてローズマインドが育まれてきましたが、その「思いやり、優しさ、助け合いの心」を大切にすれば、「バラ色の人生」がきっとくる、そんな風に思いました。

No226 辞める話、止めた話

まず辞める話。5月末で社会保険診療報酬支払基金の審査員を辞めることになりました。新しく定年制が適用されたようです。支払基金、何それ?と思われると思いますが、簡単に説明すれば、医療機関から提出された診療報酬明細書(レセプト)の審査および保険者(健康保険組合、全国健康保険協会など)から医療機関への診療報酬の支払いを仲介しているのが支払基金で、審査員はレセプトをみて適正な保険診療が行われているかどうかチェックをするのが役割です。

2000年当時、勤務していた病院の先輩が退職される際に、「支払基金の審査はこの病院の主任部長の仕事だから」と言われ、その役を引き継いで25年、よくぞ続いたと思っています。本来なら広島から福山へ勤務が変わった際に辞めたかったのですが、当時の審査委員会の重鎮に「県東部からの審査員も必要だから」と言われ、続けました。支払基金での保険審査は私自身が日常の診療を行う上でも勉強になり、正しい診療を行わなければ、との想いを新たにする場所・時間でしたが、診療報酬点数の設定や算定のルールなどには疑問を感じているところもありました。支払基金に行けば若い頃の同僚や後輩にも会うことがあり、楽しく仕事ができていましたが、最近はオンライン審査も始まり、広島まで出かける回数は減り、彼らとの交流の機会も減ってきました。いい潮時だと思っていますが、これからもレセプト審査で培った知識や考え方は今一緒に働いている仲間たちに伝えていこうと思っています。

そしてもう一つ、この4月から止めたことがあります。私は子供の頃から頭にコンプレックスとか、何かしら思い通りにいかないことを持っていました。小学生の頃は頭が同級生たちより大きく、普通サイズよりかなり大きな帽子でないと頭が入りませんでした。また、私の弟は小さい頃から髪の毛を伸ばしていましたが、私はなぜか父から「ダメ!」と言われていて、高校を卒業するまで丸刈りでした。髪の毛を伸ばすようになると頭が余計大きく見えますが、大学生になると今も親交のある私より大きな頭の先輩と出会い、サイズの呪縛からは解き放たれました。40歳代の後半になると頭に少しずつ白いものが目立つようになりました。そのうち家内が一言「染めようか?」、言いなりの私は「うん」、最初の頃は家で染めてもらっていましたが、早々に頭皮がかぶれだし、やがて家内と同じ美容院に行くようになりました。「カットとカラー」が定番になり30年近く。カットをすると側頭部は白く、頭頂から後頭部にかけては黒茶色が少し抜けたような色のツートンカラーとなり、確かに年相応に見えます。これまではこの後カラーをしてもらい、「10歳以上は若く見えます」と担当の美容師さんには言われている「見た目」に仕上がるわけですが、4月からカラーを止めました。カラーで修飾しない自分の頭を見てみたい、というのが理由です。

さて、周りの人はどう見たか、家内の感想は「ふ~ん」でした。病院で朝一番に私と会う女性は部屋のドアを開けた途端、「ギャア!おしゃれ~」、その他、「だんでぃ」と思わず口走った人もいましたが、その他は性別を問わず何の声も聞かれませんでした。

福山市病院事業管理者 高倉範尚

No225 病院がつぶれる!

3月のある朝、TVを見ていると、住みたい街ランキングで常に上位の吉祥寺から救急病院がなくなった、というニュースが流れていました。街の人たちのインタビューを聞くと、「救急病院が近くにないと急病のときに不安」などを口にされていました。調べてみると、最後まで残っていた病院は建て替えての存続を予定していたようですが、建築費用の高騰でそれが困難となり、昨年9月末で閉院となったそうです。この病院は吉祥寺で唯一の二次救急病院であったため、住民の存続・再開の思いも強く、その声が届いたのか最近、都内の医療法人が病院を継承することになったとのことですが、再開は数年後になる見込みで、住民の不安はもう少し続くことになります。

吉祥寺に限らず、今、「病院医療の崩壊」が始まろうとしています。さまざまな病院団体から「ご存知ですか?あなたの街の病院がいま危機的状況なのを!!地域医療はもう崩壊寸前です」とか、「今のままの診療報酬では倒産する病院も」などの声明が出されていて、国立大学病院でさえ、「42ある国立大学病院のうち32病院が2024年度の収支は赤字見込みで、赤字額は総額281億円にのぼる」と発表しています。

コロナの時期から低迷していた病床利用率は改善傾向にはあるようですが、日本病院会や日本病院協会、全国自治体病院協議会などの6病院団体が2024年度の診療報酬改定後の病院の経営状況を調査した結果によると、改定前の2023年度に比べ改定後の医業収益は伸びているものの、医業費用はそれ以上に大きく増加しており、100床当たりの平均の医業収益は11億1,953万円、医業費用は11億8,645万1,000円と6,700万円あまりの赤字となっています。この原因として、給与費、診療材料費、委託費、水道光熱費など経費、控除対象外消費税等負担額の増加が挙げられていました。これまでの診療報酬改定では各地域で高度医療や救急医療を担っている急性期病院の人的配置を促すことで増収となるような改定が行われてきたと理解していますが、人員増加による人件費増加や諸物価の高騰、特に急性期病院では政府が消費税分は含まれているとする診療報酬では賄いきれない控除対象外消費税(当院の場合だと12億円ほど)など、今、急性期病院にはすさまじい逆風が吹いています。「病院がつぶれる!」は決して冗談ではありません。

2025年春闘の賃上げ回答の映像も目にしましたが、多くの企業で景気のいい数字が並んでいて、はて、これほど景気の悪い医療の世界に人が来てくれるだろうかと、ますます心配になりました。また、自民・公明・維新は次年度医療費の4兆円削減を目指すことで合意しました。医療に無駄や過剰があり、それを正していくことで削減を図るのなら理解はできますが、手当をすべきところに手当をせずに削減を図るようなことになれば、国がつぶれる始まりになりかねないと思っています。

福山市病院事業管理者 高倉範尚


診療受付時間
8時30分から11時30分
患者さん及びご家族の皆さまへのお願い
※当院は原則予約制です。初診はかかりつけ医で予約を取り、紹介状をお持ちください。
外来診療日
月曜日から金曜日
祝日・年末年始を除く